昭和54年02月07日 朝の御理解
御理解 第62節
「昔から、人もよかれわれもよかれ、人よりわれがなおよかれというておるが、神信心をしても、わが身の上のおかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ。」
と誰でもまず自分が助かりたい。また自分の一家が助かりたい。そういうところから信心は始められるものです。そして段々信心が身に付いてくるようになり、自分自身の助かり、信心によることは、こんなにも有り難いものだと、分かって来る様になるころから、ね、これを人にも助かってもらったら、どんなに有り難い事になるだろうかという、自分の助かりをそのまま、人の助かりに押し広めて行こう、と言う様な心にもなってくる。だから先ずは、自分が助からなければならない。
一番初めから人が助かるためにというて信心するのは、先ずは無かろうと思う。ね、先ずは自分が助かりたい。先ず我が身におかげを受けてということは、ね、いわゆる神様が分かり、神様を信ずる事が出来る。いうなら心一つで、自分がこの様に有り難い状態にある、おかげの中にある、日々がいうなら、神恩報謝の生活が出来る様になって来る。だから誰かれでもがね、こういう心の状態になられたら、おかげを受けられたらよかろうと思う所から、あぁまぁいうならば、示現活動ということになるわけです。
まぁそういう意味だと思うんですね。「人よりわれがなおよかれ」先ずわが身におかげを受けてというのはそういうこと。ね、その自分の助かりというものが、人にも及ぼしていくという、いうならば信心の過程、信心過程というものが、成長して行かなければおかしいんです。でないと自分だけが助かりゃ、もう人には黙ってこうね。ところがそのうなんというんですか人間の、まぁ人間の習性とでも申しましょうかね、杉さんのお導きで吉井から、あのう参ってきておった方があったんです。
本当にお参りをするたんび(度)に、「こんなに有り難い神様がおんなさるちことは知らじゃった、どうしてこういうこと早く私に教えてくれなかったか」と、あのう言われるほどしであった。そしてある時ちょうどここで一緒になって帰られる時に、その方がすぐさに言われるのが「もう、こげなん神様誰んでん教えますまい」っちて言わっしゃったという話しがあります。ね、というほどしに有り難い神様なんです。ね、例えば山に、松茸なら松茸、菜葉を取りになら菜葉を取りに行くわけです。ね。
すともう段々「はぁここん所にいつも生える」と言った様な事がたん決ってるわけです。大体菜葉の生えるところちゃ決っとる。だから自分がそういう場所を見つけたらもう人には教えたくない。ね、そういうものが、心のこれは決して悪い心の状態ではない。人間誰しもそういうものがあるわけ。ね、私はそう意味だというほどしに、この神様は有り難い神様だということが、先ずは分からなければいけん。ね。
そしてこれは、自分達が頂いとっちゃ勿体無い、こういう有り難いものを誰にも教えていけれる、教えたからというて信心の間合いは減るもんじゃない。ね、ますます有り難い世界を広げていこうと。ね、「こげな有り難い神様もう誰にでん教えやすまいや」と言うほどしに、有り難いものを、先ずは自分が頂きたいけんしなければならない。ね、それがまたいつまでも、「こりゃもう人に教えまいや」と言った様な心が言わば、育っていかないならば、しかしまたおかしいことになる。
その助かっていく一つの過程というもの。ね、昨日研修の時に「楽しさと心配と」ということを頂いた。もう以前に「天と地と」という映画がありましたね、そういう題名の。まぁそういういうなら口調でね「楽しさと心配と」というのです。だからこれはもうそこで切れてるわけじゃない。ね、「楽しさと心配と」そすとま一っちょなにかそこ次のものを考えさせる。考えさせられるいうなら言葉ですよね。「天と地と」と。これは映画の題名でしたが、私は昨日頂きましたのは「楽しさと心配と」とこうある。
信心を段々頂いていく。どういう例えば、問題はいつも問題の中に私共はあるわけですけれども。また難儀と言えば難儀の中に、いつもあるわけですけれども、この難儀を神様がどういう手立てで、助けて下さるだろうか、おかげを下さるだろうかと、思うただけでも心が弾んで来る。楽しいです。勿論信心を頂き、教えを頂いて、日々信心の稽古させて頂きますと、いつも申しますように、それこそ天地のリズムと、心の一つの波長というものがあってくる。なんとも言えん有り難い。
いうならば天地との旋律が心に、体に響いてくるそういう楽しさ。と同時にやはりおかげを受けていく楽しさ。どんな問題があっても信用させて頂いて、神様がどういう手立てをもって、おかげを下さろうとするのだろう。例えば苦しい事があっても、この苦しさを神様が与えて下さると言う事は、神様が修行を求めて下さるのだ。ね「こういう修行をさせて下さってるんだから、どう言う様な神様が手立てでおかげを下さるだろうか」と思うただけども心が楽しゅうなる程しの。
神様を先ずは頂かなければならないを言う事。それでいてそこに不安がないか心配がないか、というと嘘になるやっぱり心配になる。ね、その心配が又有り難いのである。その心配が私共の心を弾ませる。「あぁ眠たいな」と思うても心のその不安心配。「有難うなるだろうか」っと思って居る様な事が心にありますとね、必ず心がはずんでくる。それこそ、眠たいと思うてもパチッと目が覚めるようなものが感じられる。
「ここでいっちょ立ち上がらにゃ、ここで一つ立ち上がらにゃ」と思うておっても、心配があることを思うとハッとおもわず立ち上がってしまう。ね。恐らくだから、この心配というものは、私共が一生付きまとうのと同時に、いわゆる楽しさあっての心配でなからなきゃならないということ。いわゆる「楽しさと心配」である。そこでまぁこれは私自身のことを思うんですけれども、その心配の内容というものが段々いうならば向上してこなければならない。ね、例えば私自身。または私一家と。
もう私自身のことなら心配はない。私一家のことなら心配はない。けれどもあの人のことを思うたら心配になる。ね、その幹三郎が、あのもうとにかく、「100のものなら、99はダメだ。」と言われた時に、私が今心の状態を思うてみる時に、普通でいうならもうそれこそ、心配で心配でたまらない。ところが私には、私には心配が無かったから不思議です。ね、もしあれが信者のお子さんであったら私は、大変心配をして、あぁいうおかげにはならなかったかもしれない。
と言う様に、自分の心配の内容というものが、非常に高度かしていっておることを、自分で気がつかせて頂いた。ならこの「楽しさと心配と」というのもやはりそうである。昨日頂いたのもそうである。昨日そこんところを、研修させて貰ったんですけれども、フッとその人の事を思うたら心配になる。心配になるから、信心の方がいうならじっとしておられない。ね、もう眠いなんかはもうとんでしまう。と言う様に次の信心の手掛りが、いわゆる「心配する心で信心せよ」という信心が出来るのです。ね。
だから心配というものは、段々高度かしてくるものであってそれこそ神様がご心配なるような心配を自分でさせて頂くようになってくる。ね、いよいよ信心の楽しさもまた、偉大になってくる。大きなものになってくる。ですから自分の信心を思うて見てです。ただ自分のことのだけに心配である。ね、信心の楽しさというものと、その心配がです。ね、自分のことから一歩もでない心配であるならば、やはりこれは信心不足、修行不足。まだ本当の信心の成長がなされていないと悟らせてもろうて、ね。
自分のことはもう心配がないくらいな、いわば信心にならせて頂かなければいけない。ね、楽しさと心配と。もう限りが無い次のものがある。例えば、御道のここで沢山修行しておる方達、先生方がおります。ね、その人たちが、ね、とにかく自分を中心にして人が助からなければならない。どうでも人が助かるその中心にならせて頂けるようなおかげを頂きたいと本気で思い出したら、これはまず私が力を受けなきゃならない。私が助からなければならないということが眼目になってくるんです。ね。
もう人が助かりさえすれば良いということは、思えば思うほど、これはいよいよもって私が力を受けるよりほかにはない。私が、ね、私が助かる以外にはない。ね、そこで自分が助かることの為にいよいよ信心修業させてもらうんです。ね、昨日の御理解のように、人間が助かりたい。ね、幸せになりたい。なのにこういう難儀がある。どこからその難儀がくるのかと。
「ははぁ日柄が悪かったからじゃ、方位が間違っておったらかだ」というふうに、いうならば、日柄とか方位とかというのは、人間が幸せになりたいと思うところから、できた一つの学問です。ね、ところが信心はです。日柄もいらなければ方位もいらない。ただ自分の心一つで助かられる道を、説かれたのが、教祖金光大神なんです。ね、そこには、日柄もなければ方位もないということ。
運勢というものは、運命というものは、自分の心が一つで、切り開いていくことができるんだ。どういうおかげでも頂くことができるんだと、説かれたのが、金光教祖の御教えなんです。ね、いわゆる心一つですべてを作るんだ。そこで自分の心に助かるということは、自分の心一つに焦点をおいて、ね、「なるほど、これではおかげが頂けないはずだ」ということを、極めていよいよ心を清める事に、改まっていくことに、いよいよ豊かに大きくならせて頂くことだけに、精進すればよいことになるんです。ね。
教祖の神様は日柄で幸せになるのじゃない。方位で幸せになるのじゃない。ね、学問で幸せになるのじゃない。技術を身につけたから、幸せになるのじゃない。心一つでいうならば、天地が自由になるほどしの、又はいうなら、それに伴うてくるところのいうなら才覚であり、技術である。心が真にならなければならないということを、段々深く分からせてもらわな、また教祖はそれだけを、説いておられるのです。人間は心一つだ。おかげは和賀心にあるのだ。
和らぎ賀ぶ心にあるのだ。とだから私どもが助かりたいと願うたら、自分の心を見極める他はない。自分の心を見極めたら、精進せずにはおられない、修行せずにはおられない、改まらずにはおられない、磨かずにはおられない。ということになってくるんです。ね、そこに自分の助かりがあり、ね、自分の助かりがあり、ね、そこでならこういう助かりかたをです。あの人もこういう、助かりをされたらどんなに有り難い、素晴らしいことになるだろうかということになるのです。
昨日は、あの通り深町の塚本さんっていうお醤油屋さんのご主人が参って、もう椛目時代から月に一回ずつ参ってくる。まぁ月参りをしておる。いつも私がいない時にほとんどお参りになっとる。昨日ちょうど私が四時半、下がろうとしておるところに参って来ましたから、裏でお茶でも上げましたんですけれども。この人が、あのうなら合楽に、もう十何年間月参りをしておられるというのは、龍さん、ね、あの自動車屋さん。龍さんに土地と家を土地を貸してやった。
そこん土地に、まぁ小さい小屋のような家を自分で立てて、そこで自動車のいうなら修理をなさっておった。ところがそこがあのう、西鉄が新たにそこの軌道になるために、「そこを空けてくれ」と、もう無償のような状態で、龍さんのいわば人柄を見込んで、あの貸してやっちゃた。ね、そしてもう西鉄が何時何時までには、そこを買い取って開けてくれというてきておるから、その塚本さん、龍さんに「再三あんたどうでも早う家をさがしてもろうてそこにでてもらわんと、困るから」というわけ。
ところが龍さんが中々出なさらん訳で、それでもう私も「あんたばっかりは、みそこのうた」と言う事になった訳なんです。それでいよいよその先日見た所がその当時の椛目ですよね。「椛目の先生がまだ出らんでよかち言いなさるけん」っち言っとんなさる訳です。「だからそげなこつば言うごたる神様があんなら私が言って談判してきてやろう。」というて龍さんと2人でみえたのが始まりだったんです。そしてあの「あなたのところが空けなさらんとにゃ、必ずあそこが空けますよ、空けますよ」と。ね、
というて懇々を私がお話をしたから、まぁ半信半疑では有るけれども帰られまして、そしていよいよ空け渡さんならんというほんな寸然に、ほんな側にあの今のお家があったんです。風呂屋さんの後ですから、大きな家で中でいうなら工場にもなりゃ住いにもなると言う様な、おかげを頂かれた訳です。それももう何ともかんとも言えん様な、神ながらのおかげを目の当たりに、塚本さん見られてから、この神様は違うと分かった訳です。それから、あの月参りを別に教えを頂かれるわけでもなんでもないけれども。
昨日の話「もう先生、私はもう月参りをするようになって十年から十二年になりますが、もうなんとはなしに、なにかにつけておかげ頂きますですねー」ということでした。ね、これなんかは私は、あの龍さんの助かりがね、そのそういう風にして伝わっていったわけです。進められたわけではないけれども、そうして伝わっていった。ね、そこに龍さんの助かりが、どんなものであったかということを感じられるです。ね、その助かり。本当の助かり。本当の助かりというものは、人に伝わっていくです。ね。
その伝わって行くほどしの、いわいる「人を助けてやれ」ということがです。ね、できるおかげを頂く為には、まずは自分が助からなければいけない。皆さんがご承知のように龍さんが助かってござるということは、皆さん分かるでしょうというてなら、不安や心配がないかというとそうじゃない。やっぱ不安もありゃ心配もあるわけですね。その不安も例えば心配もです。段々共にそれが育っていかなければならない。去年の心配はもう今年の心配ではない。ね。
今年の心配が来年までも続いたらもうおかしい。やはり心配の内容も高度かしていかなければならない。先ずはいうなら自分自身が助かることにあるのです。ね、自分が助かることを、為にはどういうことかというとです。ね、自分の心が助からなければならない。自分自身がまずは助からなければならない。自分が助かったら、ね、今度は「人にも助かってもらわずにはおれない」という心が生まれてくる。「人が助かりさえすれば」ということはそういうことだと私は思うんです。ね。
御道の教師を例えば志た人たちが、とにかく「人が助かりさえすれば」という助かる手立てだけを、いくら勉強したり、お取次ぎのいうならば、仕方を覚えただけでは、人は助からん。まず自分自身が助からなければ、ということに気がつく。自分自身んの助かりということの、そのいうならば、度合いというものは、もう限りがないもの。ね、なんぼでも助かっていけれる。その助かりのいうならば、余波のようなもので、人が助かって行く様なおかげを頂く。
その助かりの芯は、どういうことになるかというと、教祖がぎりぎり、教えておられるところの心一つで、自分の心をいよいよ持ち返る。自分の心をいよいよ、本当のものにしていくという、おかげを頂く以外にはない。昨日、一昨日でしたか、そこの合楽食堂の中村さんが、ある同業者の間にいろいろな問題があって、もうそのいうなら悩んである、ね。いうなら向こうが向こうなら、こっちもこっちと言うてしまえば、問題はもうそれで解決するようなもんだけれども。
そういうことになると、いうなら争いということになる。信心してこんなこつじゃいかんけれどもやっぱ心にかかる。そしてお夢を朝がた頂いたのが、もうお榊の林。榊ばっかりが生えておる。そこでここの今徹美先生と親子2人で、あのアサリを売っておるところを頂いた。アサリ貝を。ね、榊と言や神の木とある。ね、木へんに神と書いて榊と読む。いうならば信心させて頂いておればです。信心のないものとは、いうなら信心のあるものとないものは、いうならば子供と大人ぐらいにゃ違わにゃいかん。
人間と神様のように違わないけん。だからそう、なら自分が神様の榊の木の、いうなら神の気なったらもう全然もんだいじゃない。ね、人がいろいろと中傷してくれる。「いやぁもうおかげになりますが」」と言えれる。「そげなこついいなさったちの」と言うて腹かかんでよかわけ。ね、しかも、ね、親子でアサリ貝を売っておる。貝ということは、あのう信者という意味なんです。ね。
行く行くは息子が布教にでもでるだろう。そのときになら、息子のお母さんとしての信心というものがでけとらなきゃ合楽食堂はもう、いうならば、もう人間がしとる商売じゃない。神様がなさっておられるんだ。人がならいよいよ助かることのために、お前が人間から神様へ移って行くほどしの助かりを頂かなければ沢山のいうならアサリ貝を売ることはできないぞと。
人が助かるということのために、いうならば合楽食堂という場をです。お取次ぎの場と言う様な頂きかたをさせてもろうて、人が助かることの為の修行を、息子も教会で一生懸命修行しておるのだから、親のお前も、一生懸命修行していけ、そのことを人の助かることの材料。ね、だからいうならば、ね、神様と人ほどの心の関係が違う、変わってくるということは、助かるということなんです。そういうことになったら、もう全然問題じゃなくなってくる。
ほんなこつ(本当に)大人と子供ごと違わなきゃ、人間と神様との差できなければ、そこに問題はなくなるというほどしに助かる。助かるところにいうならば、榊の林の中で、ね、アサリを売ることができる。いうならば、神様の世界にもう住み替えることができるおかげを頂く為の修行だよと、神様が教えておられるわけです。だからこれは、んなら取次ぎ者だけが人が助かるということのために専念するのではない。御道の信心者。とくに合楽にご縁を頂いておる方達がです。合楽よって皆さんたちが助かる。
助かっていわゆる、合楽示現活動に参画させて頂くほどしの、おかげを頂く為にはです。ね、今日皆さんに聞いて頂いたように、先ずは私が助からなければならない。ね、そのにはいつもその、いうならば信心の喜び、楽しさというものがあると同時に、ね、心配も何時も付いて回っておる。けれどもその心配がもう、人間がするような心配じゃない。いうならば神様がなさるほどしの心配がです。ね。付いて回る。
心配があるから、ね、いうならば人間の堕落しようとする時でも心配があるとしゃんとせずにはおられない。「はぁ今日は眠たいけんご無礼しようか」と思うてもフッと心配なことがここにありますと、やはり飛び起きていうならば、神様ん方へ心向けずにはおれない。弾む心が生まれる。そういう意味で心配というものが大変大切なものであると同時に有難いものであるということが分かる。けれどもその心配がいつも、ね、ただ信心がないものでも心配するような心配であっては、勿論ならないということございます。
どうぞ。